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砂 の 中
「帰りたいの?」
砂塵が舞っていた。黒い闇空で、月の光を浴びて、ちらちらと輝いていた。どこかで見たと思った。
真っ暗な部屋。まだ世界があった。東京があった。真っ暗な部屋。深夜、父は帰らず母は眠りについていた。一人起き出して、ふすまを開けたリビングにテレビの砂嵐。ざーざーと鳴っているその画面を、子供のように見続けた。手を掛けたふすまを汗で滲ませた。足先から熱が逃げた。目はちかちかしたが、そこに何かがあるような気がして見つめ続けた砂嵐。今この世界に繋がっているものかも知れない。あの夜は確かに静かだった。だがまだ世界があった。
「どこへ?」
ここはどこだ。ここ以外は、どこだ。なんなんだ。これはなんなんだ。これが現実か。これは夢か。そうであっても大した変わりはない。覚めるまでは同じもの。そう考える内にも、この何かが覚める気配はない。こうしてみると覚めるまでは全てが現実だ。今自分がここにいる、それだけが現実だ。
座り込む目前にそれは立っていた。見たところ人間だが、怪しいものだった。それはひどく美しかったが、男とも女ともつかないし、何の魅力も感じられないのだから、アダムとイブには成りそうもない。いっそそれは継続や未来を拒むようだった。絶滅を待つ稀少の亜種のようだ。この世界に似ている。砂ばかりの不毛の地。それと似ている。ただこんな境遇にまでやってきてしまった、そんな時代の産物であるかのように、刹那的で不完全な存在であるかのように思われた。或いは“つがい”を必要としない、もっと完璧な人間かも知れない。前時代的で不完全なのはこちらの方かも知れない。
そんなあらゆる考えなどまるで知らない、純真無垢な子供のような目をくりくりさせて、それは尋ねた。
「帰りたいんだろう?」
「いいや」
また気温が上がり始める。ぼさぼさの髪を何度も撫でつける。鏡があれば、と思う。そこに自分を映すんだ。鏡には左右が逆転した自分が映る。本当は正しくない。だが人から見ても左右逆転なのだから、鏡に映った自分というのは、他人が見る自分に近いのかも知れない。そうして自分を客観視することを好む辺り、人間は恐ろしい性癖の持ち主である。そこにあるのは否定される自己ばかりで、人は自己を捨て他人を飛び回る、そんな、個体が意味を持たないくらいにリンクした精神的動物であるのだ。だが大量に増えすぎた所為で何がなんだか分からなくなり、リンク不能に陥る欠陥が生まれ始めた。鏡に映り自分を離れようとしてみても、行く宛てなどどこにもなかった。蛍光灯の薄暗い灯り。青ざめた顔の隈を勲章か何かのように指先で撫でた。撫でた肌の死人のような柔らかさ。冷えた頬が引きつって鏡の中で笑っていた。その顔は親父にどこか似ていた。行く宛てをなくしたものは血を逆流し始めるのか。
フローリングが冷たかった。足の裏に埃が付くのが分かった。湿った新聞を投げ捨てて座ったソファから埃が飛んだ。飛んだ埃は宙を舞う。カーテンを開け放した窓からさす月光に、やはりきらきら、きらきらと。
「月は変らないなぁ、昔から」
しゃがみ込んだまま、ぽっかりと浮かぶ月を見上げた。目の前に立つそれは月を見ないで、じっとこちらを見下ろし続けた。見張られているようだったが、これにそんな意識があるのかどうかも疑わしかった。仲間がいるとは思えない。これも一人であるならば、もうこの世界に必要なのはこれ一人と言うことだろう。それならば何故此処に自分がいるのかが、疑問でならない。だからといってこれに聞いても分からない謎であるだろう。
「月はいつだって月だし、これからもずっと月だと思うよ」
それはじっと、俺の目に映る月を見て言うようだった。
「それはそうだが」
「そうだね、月は変わらない。懐かしいだろう」
聞かれて、苦笑した。その口調に、そちらにとっては懐かしくも何ともないのだと示されたようで、こちらとそちらの境界は明白だった。
確かに月はいつも浮かんでいた。
「でも月には帰れない。例え行くことができたって」
冷たい。月が。月を映した床が、床を押しつぶす空気が。水道の夢を見た。ぽたぽたと雫が垂れてシンクを打った。真夜中なのにシンクは輝いていた。水は流れていった。排水溝に消えていく。それで目が覚めた。足先でビールの空き缶が倒れて転がった。体が軋んだ。月の明かりが冷たかった。テレビで砂嵐が踊っていた。
俺は動きを止めて待った。足先の向こう、玄関から一直線に続く廊下を、父がやってくるのを。ふと気付くと、台所からぽたぽたと水音がした。急いで起き上がって、電気をつけて蛇口を閉めた。それで全てを理解した。父は少し前に死んでいた。
「この世界は枯れているの」
それはやはりじっとこちらを見下ろしたままそう口にした。まるで見る必要なんて微塵もなくこの世界は全て自分であるかのようだった。だとすれば、唯一俺だけがそれではないのだろう。俺にもその自覚はあった。
「だったら何もかもが風化すればいい」
そう思う。こんな時でも笑えるものでニヒルかニヒツか、そんなものを志した若かりし時代を俄に思い出した。その時には成り得なかったものに、今簡単に、望まないうちに成っている。それはそれでまた皮肉な話である。望まないからこそ、与えられる。
「帰りたいの?」
それはまた聞いた。まるで、早く出ていって欲しいと、それとなく、良心的ながら残酷に促す大家か何かのようだった。或いは自らの故郷を失った者に心変わりを求めるボランティアーのようでもあった。
「いいや」
泣いていた。父は遠く葬式会場の棺の中にいる。哀しいと言うよりは恐ろしかった。いよいよ家族が終わり始めるのだ。リビングではテレビが、故障したような砂嵐を映していた。いつもはそれが映るたびにすぐさまチャンネルを変えた。その音と映像が不快だから。だがそれだけではなかったのだろう。それはもう、これ以上未来がないのを示すようだった。
「もう良いんだ」
「そうか?」
「この砂全部が掘り返されたって、どうしようもないさ」
「街は出てくるよ。此処が君のトウキョウなんでしょう?」
「いいや」
日常なんていまや異世界だ。異世界は日常とは繋がらない。繋がらないで今も、断絶したままその結び目を見つけられない。テレビのリモコンが見つからないから、新聞やらクッションやら脱ぎ捨てた服やら、部屋中のものを放り投げてそれを探していた。テレビでは砂嵐が舞っていた。
ふわりとしたんだ。
浮き上がった。
あの何とも言えない感覚。あの瞬間、世界中がふわりとしたんだろう。それはとても優しくて、それでいて有無を言わせず核心的だった。誰もがみんな、魂が抜けそうな感覚を覚えたはずだ。それはあながち間違えでもなかった。
それで、どうなったのかは分からない。あれが世界の最後だった。
この砂の下に東京があると言う。そんな砂原に、石ころのようにぽつねんといる。
なんだっけか。ふとそう思いつく。こうして存在していることが、実際、良く分かっていない。それはもう当たり前でない。望まないのに与えられた。それで持て余している。
血反吐を吐くような感情が、体の奥深くに眠っているようだった。それが俺の東京かも知れない。或いはいつとも知れないうちに飲み込んだこの異世界の砂なのであろうか。
「行きたいなぁ」
どこ、とも言わないのに、どこ、とも聞かなかった。
「行こうよ」
そういうので、初めて真っ直ぐそれの目を見返した。
噫、違う。
食われそうだ。これは人食人種で、まず間違いないだろうが、もう人間はそれ自身しかいないのだから、向こうも絶滅は必須である。絶滅どころから、生まれた頃から絶滅の危機だ。あれは生まれたのだろうか。いつ何から生まれたというのか。それを言えば俺の祖先だっていつどこから生まれたものだか分かったもんじゃない。
ひょっとすると俺こそがその危機を救う餌なのか。俺もまぁ人間ではあるのだから。それでもすぐに絶滅ならば俺は無駄死に甚だしいが、果たしてこの世界で無駄にならない生なんてものがあるだろうか。ないね。ないだろう。砂漠と一緒だ。砂である意味なんてないし、砂漠である意味もない。ただ砂で砂漠であるだけだ。
砂遊びをしていて、そこに水が流れ込んだ。ぐしゃぐしゃの泥の中にぐちゃぐちゃと手を突っ込んだ。それで帰ったものだから母は怒って、手を洗いなさいと叫んだ。手を洗って、疲れたもんだから昼寝をして、目が覚めたら夕方で母はいなかった。買い物だろうと自分を宥めて、ただそれよりも、つけっぱなしのテレビが、いつの間にかチャンネルが変わっていたのだろう、砂嵐を映していた。
それをじっと見ていた。
「どこだっていい。ただここではない。消えるんだ俺たちはここから」
ぴょんと砂丘から飛んだ。またふわりとした感覚がした。
月が空から照らしてた。空気は熱く肌を撫でた。首筋がぞっとした。
着地すると砂がえぐれた。柔らかいようで、それ以上の進入は許さない大量の砂。その砂の下の広大な街を思うと、震えが走った。
それは重すぎるし深すぎる。大きすぎて長すぎて、とても俺一人で究明できるような代物ではないのだ。それは自分のものへは成り得ないのだ。例え他の誰のものでもなくなっても。
「帰りたいの?」
歩き出すのを声が追った。
走って逃げた。
そして叫んだ。
「どこへ!」
そうだよ全部、埋まってしまった。
東京は死んだ。
一人残した人間に、なんの意味も与えないまま。
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